エルメンドルフ空軍基地の歴史は、1940年8月に陸軍航空部隊の配備から始まるようである。この時代は丁度日本との緊張が高まっている時であり、アリューシャン方面から日本軍が北上していくのに対抗して航空部隊が置かれるようになった。1940年12月にアリューシャン列島を経由しながら日本海軍の機動部隊はハワイを攻撃したが、同時にアッツ島 キスカなどにも勢力を拡大している。1942年2月に陸軍第11空軍(現在の11th AF)がエルメンドルフに創設されアリューシャン列島方面の作戦に参加している。1943年アッツ島で玉砕を余儀なくされた日本軍守備隊も、この陸軍第11空軍の第54戦闘飛行隊(P-40〜P-38)やB-25攻撃を受けている。但しアリューシャン方面の作戦で11空軍が被った損害も大きく、32機の航空機と200人を超える戦死・事故死者の数は、他の作戦と比べ高い損害率であったと記録されている。
 戦後はソビエト連邦(現ロシア等)との緊張が高まり、アラスカ防衛の拠点として中心的な役割を演じてきた。アラスカはロシアと唯一国境を接している地域であり、弾道ミサイルの早期警戒システムも充分な配置が成されている。アラスカ防空軍団の設立と相まって11th AFは、F-80戦闘機を手始めに次々と機種を更新し、1970年までは防空戦闘機F-102デルタダガーを運用していた。1970年にF-4Eに更新して12年ほど第21混成航空団のもと2個飛行隊が運用されていたが、1982年に43th TFS"Hornets"がF-15Aイーグル戦闘機に更新された。後に43th TFSは、バージニア州ラングレーAFBの1st TFWからF-15Cを取得して部隊のグレードアップを実施している。1986年にはE-3Aを運用する第962早期警戒飛行隊が配置され、翌1987年に2つ目のF-15C飛行隊 54th TFSが追加配備されている。1990年8月にアラスカ航空軍団は解散し、エルメンドルフはPACAF傘下の基地に変更となった。その後、1991年12月フィリピンクラーク空軍基地の閉鎖に伴い 第3戦闘航空団(3rd WG)がエルメンドルフに移動 F-15Eストライクイーグルが配備されて注目された。



1991年時の第3航空団の戦闘機部隊

 第90戦闘飛行隊(90th FS) F-15E ”AK"
 第43戦闘飛行隊(43th FS) F-15C ”AK"
 第54戦闘飛行隊(54th FS) F-15C ”AK"

 
この中で2006年時点で現在もエルメンドルフにいる飛行隊は 第90戦闘飛行隊のみである。

↑ 1979年頃の18th TFSのF-4Eに施されたマーキングで、43rd TFSの赤いテールチップに対し、ホワイトグレーで塗られていた。F-4E/68-0338は、1972年の5月と9月に其々1機のMig-21を北ベトナム上空で撃墜している。この機体は、最後は1985年にミズーリ州空軍で使われ、グレー迷彩にシャークティースと撃墜マークも入れられた。

↑ 1979年アラスカで開催されたサーモン・サージ演習に参加した際、第43戦術戦闘k中隊のF-4Eは再びシャークマウスを描いたが、非常に特色のある書き方だった。インテークベーンには、競技会のスコアが書き込まれていた。このF-4E/67-0288は、オーサンの51st CWへ移動、私も横田基地で撮影したことがある。

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Elmendolf AFB
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辺境アラスカにあるエルメンドルフ空軍基地なんて飛行場を訪れる機会はないと思っていたが、1992年にアメリカ空軍の大きな組織変更でPACAFの主要基地に変貌してから、一度は覗いて見たい基地の一つになった。しかし、友人や先輩でエルメンドルフ空軍基地行った事のある人はおらず、又どんな場所かの情報も殆ど無い・・・Google Earthの写真を見るとアンカレッジの町からすぐ北に位置して、車を使えば直ぐに足を伸ばせる距離にあることが分かるが、アンカレッジそのものへ行く航空便も最近はやたら少ないときている。冷戦時は、ヨーロッパ旅行と言えば”アンカレッジ経由○○行き”なんてルートが一般的だったのだが、民間航路がロシア上空を通過出来るようになったのと、航空機が大型化して以前に比べ長距離を飛行できるようになった為、アンカレッジで一旦降りて給油する必要も無くなったと言う事だ。その結果、今のアンカレッジはすっかり寂れ、アメリカのローカル空港になってしまった。大凡日本の4倍もの面積のアラスカ州に、日本の島根県の人口に匹敵する67万人しか住んでいないのである。観光以外にはこれと言った産業も無いと思いきや、最近では石油の採掘が好調でアメリカで一番豊かな州に変わったらしいが、航空マニアにとっては辺境の地と言わざるを得ない。2006/8此処を訪れてみた。

エルメンドルフ空軍基地(Elmenndolf AFB)は、アンカレッジの小さな町からフリーウェイで北に30分ほどの場所に位置しているが、アンカレッジ周辺を走るフリーウェイはこの一本だけなので非常に分かりやすい。基地のゲートからエプロンまではとても歩いていける距離ではない。何せ13200エーカーの面積とされているので嘉手納基地よりかなり広く、三沢基地の約3倍の広さである。(2006年11月記)

↑ 1980年頃、よりアラスカ州配置を強調するようなマークに変わり、尾翼を青く塗り4つの星、機体によっては白熊も書かれている。尾翼の小さなインシグニアは右側がアラスカ軍団、左側が21st TFWのものを付けていた。

↑1976年の防空部隊の競技会”William Tell"にF-4チームとして初めて参加した際のマーキングで、競技会の為に記入されたシャークティースだったが、ベトナム戦でのファントムを彷彿とさせるもので、当時注目された。FC-305は目が赤く塗られていた。

↑ 同じく”William Tell 1976"に参加したFC-493。この機体は、1972年に北ベトナム上空でMig-21を撃墜した記録を持つ為、インテークベーンに撃墜マークを入れていた。このF-4E/68-0493は、その後フィリピン・クラーク基地の第3戦術戦闘航空団へ移動。

右のインシグニア.は54th FSのもので、アンカレッジ空港の脇にある寂れた小さな航空博物館「アラスカ航空博物館」に立ち寄った際、館中に展示されていたボードを参考に描いてみた。第54戦闘飛行隊(54th FS)は、1940年代カーチスP-40の機首に”アリューシャン・タイガー”の頭を大書きしたマーキングで有名な飛行隊だった。以前はレベル製の1/32のモデルでも箱絵になっていたと思うが、P-40の後はP-38などを使用し、最近までF-15Cの部隊でエルメンドルフ基地に所属していたと言うからアラスカ任務が永い飛行隊である。嘉手納の18th WGのF-15部隊3個飛行隊の内12th FSが解散した後、この54th FSに入れ替わってエルメンドルフ基地で復活した為、54th FSは今はこの基地に存在しない。部隊名は”豹”・・・大戦中の”虎”から何時”豹”に変わったのかなぁ?・・・
第21戦術戦闘航空団/第18戦術戦闘機中隊(21th TFW / 18th TFS) "Blue Foxes"
1940年に創設され、直ぐにアラスカ方面に配備されてP-38ライトニング戦闘機で日本軍との戦いに参加している。大戦後も1954年には再アラスカに配属され3年程アラスカで防空についていた。1977年にF-4Eの配備を受けて再度アラスカに配備され、後にA-10A、F-16等に機種変更し、現在はアグレッサー飛行隊に転換してアラスカ州のイールソン空軍基地で活動している。
第21戦術戦闘航空団/第43戦術戦闘機中隊(21th TFW / 43rd TFS) "Hornets"
アメリカ空軍の中ででも古参の飛行隊で1917年創設されている。第一次大戦中は、イギリスにも派遣され当時のドイツ帝国空軍と戦いを交えた部隊で、冷戦中の1970年24年間の永きに渡りアラスカに配置された。アラスカを去った後は一度閉隊し、2002年にF-22の飛行隊として復活してティンダル空軍基地にいる。
No.2 Gate of elmendolf AFB
Headquaters of 3rd WING
Control Tower
アラスカ・エルメンドルフ基地の航空団と言えば ”FC"のテールレターを付けたF-4Eファントムが記憶にある。1980年当時は、AAC(Alaska Air Comand)の傘下に 第21混成航空団(21st CW)があり、その下の343rd TFGにF-4Eの飛行隊が2飛行隊所属していた。一つが43rd TFS、もう一つが1977年10月に再編成された18th TFS(現在は、Eielson AFBでF-16Cを使用)であった。後にこれらのF-4Eは、尾翼のラダーを青く染めて 白熊を描き 横田、嘉手納にも飛来しているが マニアにとっては超貴重な来客だったはずだ。下のイラストは1979年〜1980年当時のF-4Eのマーキングで 43rd TFS、18th TFSの順で並べたもの。
時代によって違うが、1979年頃各隊のラダーの色は、43rd TFSが赤色、18th TFSがホワイトグレーであった。また43rd TFSは同じベトナム迷彩でも後期のパターンを多く使用していた。当時は、エルメンドルフ基地からイールソン基地やキングサーモン基地などに分遣隊を出していたそうである。